近代の生命保険について

明治12年(1879年)の生命保険が誕生する20年以上前に、大蔵省を退官した若山儀一により、相互組織であるN会社というものが企画されました。でも、N保生会社は、開業するまでに集める予定であった、契約者100名の募集というものに頓挫してしまって、開業するには至りませんでした。
そして、株式組織の生命保険のほうが先に、明治14年に開業へとこぎつけたのです。
明治20年代に入ってくると、同じく株式組織である生命保険(現A生命)と生命保険が相次いで設立されていき、この3社が黎明期であった日本の生命保険業界というものをどんどんリードしていくのです。
起業ブームが起こったわけですが、そのなかでも特に3社の成功は後々に多大なる影響を与えることになりました。その後、そのブームにのっかろうと様々な生命保険の会社が誕生しましたが、その内容はどれも類似保険であり、そのほとんどが詐欺的なものだったのです。
そのため、社会問題に発展し、それを不快に思っていた矢野恒太は、理想的な保険会社の設立に向けて歩みだします。それこそが、相互主義による経営であり、その実現に向けての論文の発表をはじめとし、政財界人を訪ねてその意義と同意を求めました。

その行動は実を結び、K生命(現Y生命)の経営へと繋がっていきます。この際、彼は設計などに携わっており、やがて支配役の一人となっていましたこれにより、相互主義的な経営は実現することとなりました。がしかし、その施策は理解に通じることなく、革新的な発想と捉えられることはなかったのです。そのために、K生命を退社してしまいます。
その後は農商務省において更なる保険業における引き出しを増やし、ずっと抱いていた相互会社における法制化を追求していったのです。
その結果、ようやく明治35年に、日本初の生命保険を設立するに至ったのです。その際専務取締役となり、経費節約の理念を貫いて、当時ではネックとなっていた代理店の設置を行わずにどこまでも堅実な経営を行っていきました。